宇和島市の歴史の変遷

谷本一真
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はじめに

宇和島市は、愛媛県西南部に位置する南予の中心的なまちです。西は宇和海に面し、入り江と半島が複雑に入り組むリアス式海岸が続いています。東側には鬼ヶ城連峰があり、海と山が近い地形の中に市街地や集落が点在しています。¹

宇和島というまちは、単に「城下町」として語られるだけではなく、海・山・島・城・伊達家・幕末維新・戦災復興・人口減少という、いくつもの歴史の層が重なってできている地域だと感じます。¹³⁴⁸

この記事では、宇和島市の人口や面積、伊達家以前・以後の流れ、江戸時代から明治・大正・昭和、そして未来の宇和島までを整理してみたいと思います。

宇和島市の人口と面積

宇和島市の人口は、2026年4月1日現在で64,801人、男性30,605人、女性34,196人、世帯数は34,382世帯とされています。²

一方で、宇和島市の面積は468.16km²です。市域は東西38.15km、南北34.94kmに広がり、そのうち森林が約70%を占めています。¹

現在の宇和島市は、2005年8月1日に旧宇和島市、吉田町、三間町、津島町が合併して誕生しました。¹

海に面した地域、山間部、盆地、島しょ部を含むため、宇和島市は一つの市でありながら、地域ごとに暮らし方や文化、産業の特徴が大きく異なるまちだといえそうです。¹³

伊達家以前の宇和島

宇和島の歴史を考えるうえで、伊達家の存在は欠かせません。しかし、伊達家が宇和島に入る前にも、この地には大きな転換点がありました。⁴⁵

宇和島城は、もともと「板島丸串城」と呼ばれていた城をもとに発展しました。藤堂高虎は慶長元年から6年、1596年から1601年にかけて、海に面した地形を巧みに活かして城を整備したとされています。⁴

藤堂高虎は築城の名手として知られ、宇和島城もその特徴を受け継いだ城でした。現在の市街地の中心に城山があるのは、宇和島が城を中心に発展してきたことを今に伝えているように感じます。⁴⁵

その後、1615年に伊達政宗の長男である伊達秀宗が宇和郡10万石を与えられ、宇和島城に入城しました。ここから、宇和島伊達家の歴史が始まります。⁴⁵

伊達家の系統と宇和島

宇和島伊達家の初代は、伊達秀宗です。秀宗は仙台藩主・伊達政宗の長男であり、1615年に宇和郡10万石を拝領して宇和島城へ入城しました。⁴⁵

宇和島城は、伊達秀宗の入城以降、明治を迎えるまで宇和島伊達家9代の居城となりました。⁵

主な宇和島伊達家の流れは、次のように整理できます。⁵⁷

初代は伊達秀宗。
2代は伊達宗利。
3代は伊達宗贇。
4代は伊達村年。
5代は伊達村候。
6代は伊達村寿。
7代は伊達宗紀。
8代は伊達宗城。
9代は伊達宗徳です。⁵⁷

この中でも、2代宗利は宇和島城の大改修を行い、現在残る天守の姿につながる整備を進めました。現在の宇和島城天守は、宇和島伊達家2代藩主・宗利が寛文6年ごろに建築したものとされています。⁵

宇和島城は、藤堂高虎が築いた城の土台に、伊達家の時代の改修が重なってできた城だといえそうです。⁴⁵

江戸時代の宇和島

江戸時代の宇和島は、伊達10万石の城下町として発展しました。宇和島城を中心に町が形成され、宇和島は四国西南地域の中心として発展してきました。⁴

宇和島城は、城山の上に立つ天守だけでなく、周囲の町割りや港の存在と結びついていました。海に近い城下町であったことは、宇和島の商業や水産業、海上交通にも大きな影響を与えたと考えられます。¹⁴

宇和島市の現在の中心市街地に城山が残り、宇和島城がまちの象徴として存在していることは、江戸時代の城下町としての歴史が今も地域の景観や文化に影響を与えていることを示しているように感じます。³⁴⁵

江戸時代の宇和島は、単に城がある町ではなく、政治・商業・産業・文化が重なった南予の中心地だったといえそうです。¹³⁴

明治維新と宇和島藩の立場

宇和島藩が幕末から明治維新にかけて重要な役割を果たした背景には、8代藩主・伊達宗城(むねなり)の存在があります。⁶⁷

伊達宗城は、島津斉彬、山内容堂、松平春嶽と並び、幕末四賢侯の一人と称された人物です。⁷

宗城は、高野長英など身分や経歴にとらわれない人材登用を行い、蘭学の導入や軍政改革を進めました。宇和島市立伊達博物館の展示案内では、宗城が積極的な富国強兵策を藩内で展開し、宇和島の近代化を推し進めたと紹介されています。⁶

宗城は藩の運営だけでなく、国政にも関わりました。公武合体運動などに参与し、徳川幕府から明治政府へと政治の中心が移っていく過程で、新政府の要職も歴任しました。⁶⁷

王政復古後、宗城は議定、外国事務総督、外国官知事などを務め、明治政府の外交や国内政治にも関与しました。さらに、明治4年には欽差全権大臣として清国に赴き、日清修好条規締結の任を果たしたとされています。⁷

つまり、宇和島藩は明治維新において、倒幕一辺倒というよりも、開明的な藩主のもとで国政に関与し、幕末から明治政府への移行期に重要な役割を果たした藩だったと考えられます。⁶⁷

明治時代の宇和島

明治時代になると、廃藩置県によって藩の時代は終わり、宇和島は近代的な行政制度の中に組み込まれていきます。⁵⁸

江戸時代の城下町としての基盤を持っていた宇和島は、明治以後、南予経済の中心として発展していきました。⁸

明治期から大正期にかけて、宇和島では製糸業や綿織物業などの工業が発展しました。『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』では、宇和島が南予の段畑地帯などで生産された繭の集散地となり、製糸工業が盛んになったことが説明されています。⁸

また、沿岸航路や馬車道、鉄道などの交通整備は、宇和島を周辺地域と結びつける大きな力になりました。⁸

明治時代の宇和島は、藩政時代の城下町から、近代的な商工業都市へと移行していく時期だったといえそうです。⁸

大正時代の宇和島

大正時代の宇和島にとって大きな出来事は、市制施行です。1921年、大正10年に北接する八幡村を合併し、県下3番目の市として宇和島市が誕生しました。⁸

当時の戸数は6,650、人口は32,293人でした。⁸

このころの宇和島は、製糸業を中心とした工業の発展が目立ちました。『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』では、昭和6年時点の宇和島市内の製糸工場は35あり、そのうち大正年間創業が16、昭和年間創業が16であったと記されています。⁸

また、大正期には市街地が城下町の範囲を超えて北側へ広がっていきました。朝日町、寿町、弁天町などの干拓地には、製糸、綿織物、造船、製材などの工場が進出し、宇和島市の工業地区となっていきました。⁸

大正時代の宇和島は、城下町から近代都市へと大きく形を変えていく時代だったといえます。⁸

昭和戦前の宇和島

昭和戦前の宇和島は、引き続き製糸業や綿織物業、造船、製材などを背景に、南予の中心都市として発展していきました。⁸

市街地北部では、朝日町、寿町、弁天町などの干拓地に工場が進出し、工業地区としての性格を強めました。⁸

一方で、市街地南部では、旧城堀の浚渫土砂による埋め立てが進み、学校の移転が相次ぎました。1920年には県立宇和島中学校、現在の宇和島東高校が移転し、その後も第一小学校、宇和島女学校、第二小学校などが移転したことで、文教地区としての性格を持つようになりました。⁸

昭和戦前の宇和島は、工業・教育・港湾機能が重なりながら、南予の中心都市としての性格を強めていた時期だったと考えられます。⁸

Screenshot

昭和戦後復興の宇和島

宇和島市は、第二次世界大戦末期に大きな被害を受けました。昭和20年5月から8月にかけて5回の爆撃を受け、市街地の約70%が焼失したとされています。⁸

戦後の宇和島にとって大きな課題は、戦災からの復興と新しい都市計画でした。昭和21年から31年にかけて戦災復興土地区画整理事業が行われ、街路網の整備、上下水道の拡充、公園の設置などが進められました。⁸

特に、宇和島駅と築地の外港を結ぶ幅36mの駅前通りは、戦後復興の象徴的な都市整備だったといえます。⁸

また、昭和24年には旧城濠を利用していた内港が埋め立てられ、新しい内港が港町に建設されました。⁸

戦後の宇和島は、失われた市街地をただ元に戻すのではなく、新しい都市として再構成していった時代だったと感じます。⁸

現代の宇和島

現代の宇和島市は、2005年8月1日に旧宇和島市、吉田町、三間町、津島町が合併して現在の形になりました。¹

宇和島市は、伊達家の歴史や宇和島城、伊達博物館などの歴史文化資源を持つ一方で、宇和海の水産業や柑橘栽培などの一次産業も地域の大切な基盤です。³⁴⁵

宇和島市の紹介ページでは、宇和海の豊かな海の恵みがじゃこ天や鯛めしなどの特色ある郷土料理を生み、深い入り江と半島が交差する地形によって鯛、ハマチ、真珠などの養殖が盛んであることが紹介されています。³

しかし、現代の宇和島市が直面している大きな課題は、人口減少と高齢化です。2026年4月時点の人口は64,801人であり、今後も地域の担い手不足や産業継承、公共交通、医療・介護、空き家、中心市街地の活性化などが重要なテーマになっていくと考えられます。²⁹

未来の宇和島

未来の宇和島を考えるうえでは、「人口減少にどう向き合うか」と「宇和島らしさをどう活かすか」が大きな視点になると思います。²⁹¹⁰

宇和島市は、令和7年度からの3年間を計画期間とする「第3期まち・ひと・しごと創生 宇和島市総合戦略」を策定しています。これは人口減少や地方創生に向き合うための計画です。⁹

また、宇和島市では、まち全体をブランド化していくシティブランディングを推進し、国内外の人たちから「住みたくなる・帰りたくなる・連れていきたくなる」まちを目指す取り組みも進めています。¹⁰

さらに、南海トラフ地震などの大規模災害に備え、宇和島市では事前復興計画も策定されています。大規模災害が発生したとしても、迅速で円滑な復興を実現するために、復興の手順や復興後のまちの姿を事前に考えておく取り組みです。¹¹

宇和島の未来は、単に人口を増やすことだけではなく、地域の歴史・自然・産業・文化をどう次世代につなぐかにかかっているのではないでしょうか。¹³⁹¹⁰

宇和島城や伊達家の歴史、宇和海の恵み、柑橘や養殖、段畑、牛鬼、和霊大祭、地域の人のつながり。これらは、外から簡単に真似できない宇和島の財産です。¹³⁴⁵

その一方で、若い世代が働き続けられる環境、子育てしやすい環境、高齢者が安心して暮らせる環境、災害に強いまちづくりを進めていくことも必要です。⁹¹⁰¹¹

歴史を振り返ると、宇和島は何度も姿を変えてきました。城下町から近代都市へ、戦災からの復興へ、そして合併後の新しい市へ。そう考えると、未来の宇和島もまた、変化を受け入れながら、宇和島らしさを守り育てていくまちであってほしいと感じます。¹⁸⁹¹⁰¹¹

おわりに

宇和島市の歴史をたどると、海と山に囲まれた地形、藤堂高虎による築城、伊達家の入部、江戸時代の城下町、幕末の伊達宗城、明治以降の産業化、大正期の市制施行、昭和の戦災復興、そして現代の人口減少と地方創生まで、いくつもの転換点が見えてきます。¹⁴⁵⁶⁷⁸⁹

宇和島は、決して一つの時代だけで語れるまちではありません。城下町であり、港町であり、産業都市であり、戦災から立ち上がったまちでもあります。¹⁴⁸

だからこそ、未来の宇和島を考えるときには、単に新しいものを取り入れるだけでなく、これまで積み重ねられてきた歴史や文化を土台にすることが大切ではないかと感じます。⁹¹⁰¹¹

宇和島の歴史を知ることは、これからの宇和島を考えることにもつながるのではないでしょうか。

参考文献

  1. 宇和島市. 『市の概要』. 宇和島市公式ホームページ.
  2. 宇和島市. 『宇和島市公式ホームページ トップページ 人口・世帯数』. 宇和島市公式ホームページ.
  3. 宇和島市. 『宇和島市について』. 宇和島市公式ホームページ.
  4. 宇和島市. 『宇和島城(城山)について』. 宇和島市公式ホームページ.
  5. 宇和島市. 『宇和島城のあらまし』. 宇和島市公式ホームページ.
  6. 宇和島市. 『令和8年度宇和島伊達家コレクション展1「伊達宗城-幕末の賢侯×政界の雄-」』. 宇和島市公式ホームページ.
  7. 宇和島市. 『県指定 伊達宗城及び夫人の墓』. 宇和島市公式ホームページ.
  8. 愛媛県教育委員会. 『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予) 第五章 宇和島市とその周辺』. データベース「えひめの記憶」.
  9. 宇和島市. 『第3期まち・ひと・しごと創生 宇和島市総合戦略』. 宇和島市公式ホームページ.
  10. 宇和島市. 『第3期うわじまブランド魅力化計画』. 宇和島市公式ホームページ.
  11. 宇和島市. [『宇和島市事前復興計画の策定について』(https://www.city.uwajima.ehime.jp/soshiki/5/jizennhukkou-01.html). 宇和島市公式ホームページ.
ABOUT ME
谷本一真
谷本一真
理学療法士、呼吸療法認定士、心臓リハビリテーション指導士、PRP-Japan、JFA-B級
PRI(Postural Restoration Institute)コンセプトを基に、障害予防やパフォーマンス向上を目的としたコンディショニング指導を行っています。また、小学生を中心にサッカー指導者としても活動し、子どもたちの心身の成長をサポートさせていただいています。 運動や生活習慣の改善を通じて、健康づくりのサポートに情熱を注いでいます。
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